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- フィリピン人の民族
- フィリピンの信心と宗教・キリスト教と西洋の風習
- 日本では何故、キリスト教が普及しなかったのだろうか?
フィリピン訪問や移住を考えている方々に今回から少しずつ私の祖国フィリピンについて記事にしたいと思います。フィリピンを訪れる前に、フィリピンという国を皆さんに知ってほしいとおもいます。
フィリピン人の民族
フィリピン人は元来マレー系の人種ですが、スペインをはじめ中国などの混血が進んでいて、純血のフィリピン人は少数派です。フィリピンは中国とマレーの両足で立ち、スペインの心で感じ、アメリカンマインドで考えると言われます。西洋、東洋、そして東南アジアの風習、民族が混ざり合い独特の文化を形成しています。
華僑は福建省出身が中心で1000万人程度が中国系と言われています。今でも中国語を話し中国の生活様式を維持している華僑は100万人とも言われています。その一方で、中国語を忘れ去った中国系フィリピン人は一般のフィリピン人に溶け込んで生活しています。
フィリピン人同士が出会うとまず交わす会話は、「出身地はどこ?」です。もしも同じ出身地であったら、すぐに親しくなってしまいます。
※出身地によって色々性格が違うとされています。
マニラではマニラボーイ、マニラガールと呼ばれモダンで発展家、イロカノ(ルソン島北部)では倹約家、パンパンガ(メトロマニラの北)では料理上手、バタンゲニアン(メトロマニラの南)ではケンカっ早い、ピコラノ(ルソン島の南部)ではスイートな性格でピコラノの女性と結婚出来たらラッキーと言われます。
ミンダナオにはイスラム教徒が多いですが、これはこの地方が最後までスペインによる統治に抵抗して自治を獲得していた為です。そのせいか貧しく、メイドとして働いたり、路上で物売りをしている人々が多いです。
フィリピンにはオカマ(バクラ)、オナベ(トンボイ)が多くいます。彼らは肉体的には男性(女性)でも精神構造は女性(男性)です。自分の身体とはうらはらに女性(男性)であることを願望して、服装や態度で女性(男性)であることを主張しています。当然ですが、バクラは男性を愛し、トンボイは女性を愛します。フィリピンでは彼らは社会的に認知され、一般の社会生活を送っています。日本でも社会的認知は少し遅れているように感じますが、そういった人たちもいますよね?
2013~16年にかけて、世界のミスコンテストをフィリピン人が総なめにしました。彼女たちはフィリピン人の母親と外国人を父親に持つ混血で、フィリピンの混血文化は根強いものがあります。
※フィリピンでは混血であることは誇りでメスチーサ(女性)、メスチーノ(男性)と呼ばれ、人々の憧れを集めます。
フィリピンの信心と宗教・キリスト教と西洋の風習
フィリピンはスペイン統治の影響で国民の80%以上がカトリックで、キリスト教徒の割合は90%を超えます。イスラム教はミンダナオを中心に広がって人口の5%程度を占めています。
アジアに位置しながらほとんどがクリスチャンというフィリピンでは、毎週日曜日の朝は教会周辺にはお祈りにくる人や車でいっぱいです。これは地方へ行くほど顕著になり、街中の人が教会へ行き、家は空っぽになってしまいます。たとえKTVなどで夜の勤めをしている方々も同じで、日曜日の早朝3~4時の時間にまず教会へ行き、祈りを捧げてから帰路につく人もいます。
(今はコロナ過で教会のミサは行われていないと思います)
しかしキリスト教の普及は16世紀に入ってからのことです。それ以前の回教そして原始宗教も色濃く残り独特の宗教観を持っています。ちなみに回教の教えの「目には目を、歯には歯を」という思想も脈々と生きていて、誰かから被害を被ると復讐という言葉が頻発します。これはキリスト教の精神では許されませんが、フィリピン人の血がそうさせる場合が多いのです。
回教以前の原始宗教が融合されていて、なにか不可解な病気になったり死を遂げたりすると、誰かが黒魔術を使ったと本気で思ったりもします。病気になったら、医者よりも占い師のもとへ駆けつけることもあります。
フィリピン人にとってもっとも重要な宗教行事は、クリスマス、ホリーウィークそしてオールセイントデイです。フィリピンではクリスマスは1年で、もっとも重要なイベントです。
9月になるとクリスマスの飾りつけが始まり、10月になるとクリスマスソングが響き渡ります。
ホリーウィークはキリストの死を悼むクリスマスに次ぐ重要行事です。ホリーウィーク中は都会で働く者は日本のお盆のように皆、田舎へ帰り家族や旧友との再会を楽しみます。仕事が忙しいからといって、このとき田舎へ帰らなかったり、あるいは雇っているメイドやドライバーを帰らせなかったら、一生、尾を引くことになるので注意が必要です。
11月1日はオールセイントデイあるいはハロウインデイと呼びます。日本のお盆にあたりフィリピンの祝日です。この日は地獄に堕ちた死者も聖者になり、すべての死者の魂が、この世によみがえり家族に再会することを許される日なのです。
※ローマ教皇様は神のような存在
2015年1月15日(木)、ローマ教皇様が20年ぶりにフィリピンを訪問しました。国民の80%がカトリックというフィリピンは、メキシコ、ブラジルに次いで世界で3番目にカトリック信者が多い国です。そのため国をあげての歓迎で、マニラ首都圏には多くの信者が集まりました。
教皇様は、フランシスコという名で、Pope Franciscoと呼ばれます。Popeとは、パパという意味で教皇様だけが使うことを許されています。そして教皇様を親しみ込めてパパと呼びます。
Pope Francisco <参考>
この時、私は残念ながら、テレビで教皇様を見ることしか出来ませんでした。
それから4年後の2019年11月にローマ教皇様は、30年ぶりに日本を訪れました。
この時、私は間近で、教皇様にお会いでき、握手もしていただけました。私は心から感激し、幸せに思いました。これも私の旦那様がカトリックの洗礼を受けて、カトリック教徒になり、私の住むエリアのカトリック教会の皆様とのご縁のおかげです。そしてこれは神様の導きによるものと私は思っています。
私の旦那様は、2019年4月に洗礼を受けてカトリックの信者となりました。旦那様の洗礼名は、教皇様と同じ「フランシスコ」です。私たちが所属しているカトリック教会の司教様から洗礼名をつけていただきました。
聖者「アッシジ・フランシスコ」からです。
私の旦那様は、普段から動物たちに声をかけるような人です。私には単なる「独り言」に聞こえますが、旦那様は、本当に人と話すように動物たちに話しかけています。本当に動物が好きで大切にする人です。そういった面は、アッシジ・フランシスコとイメージが重なります。
私と結婚する前の旦那様は、多くの日本人と同じように無神論者であり、無宗教者でした。
旦那様のお母さま(私の義理の母)は、子供の時にプロテスタントの洗礼を受けたそうです。お父さま(義理の父)は、キリスト教系の大学を卒業されたそうです。
旦那様の家は、仏教の「曹洞宗」です。その前は「神道」だったそうです。
私が初めて日本へ来てから毎週のように旦那様は、私をカトリック教会へ連れていってくれて、一緒にミサにも参加してくれました。そして3年以上が経って、旦那様は自分からカトリックの洗礼を受けました。私にとっての教会は、第二の家であり、教会の人々は兄弟姉妹であり、家族も同然です。
私の旦那様がカトリックの洗礼を受けたことで、私の家族や親せきなどからも歓迎と祝福されて、それまで以上の更に強い絆と関係性を築いたと思います。
日本では何故、キリスト教が普及しなかったのだろうか?
これは私が旦那様と結婚する前に、旦那様から聞いた話です。私の記憶が曖昧な部分もあるのでご了承ください。
日本は元来、多神教の国です。自然界にある様々なものに、それぞれの神様がいます。
その為、日本は宗教に対して寛容な国といえます。日本の神様がいて、仏教、キリスト教、イスラム教その他、色々な宗教が共存している感じです。
私の旦那様の家は、昔は武家(侍)・軍人家系だったそうです。侍と軍人は日本の神様を信じていました。家の中には、日本の神様の為の「神棚」があり、仏教の仏壇もあります。そして今は、寝室と旦那様の仕事場には十字架を掛けています。
最初は、日本の神様の神棚だけだったらしいですが、江戸時代(徳川幕府時代)に神道の将軍から仏教の将軍に変わった時に、家の中に神棚と仏壇が置かれるようになったのではないかと私の旦那様は言っていました。
では何故、フィリピンと違い日本ではキリスト教があまり普及しなかったのでしょうか?
私の旦那様は、日本の戦国時代が好きで、少し詳しいようです。
日本にキリスト教を伝えたのは、戦国時代の1549年に、今の鹿児島に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルでした。その後、1563年、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されました。
その後、織田信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ織田信長のキリシタン保護政策を踏襲しましたが、突然「伴天連(ばてれん)追放令」を出しました。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものらしいです。
豊臣秀吉は最初、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していました。それは西欧諸国との貿易を重視していたとのことです。この貿易では鉄砲や火薬などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出されたそうです。
しかし豊臣秀吉は、西欧人たちの日本侵略の意図を読み取ったと言われています。
ポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉を乗船させて、自分ならいつでもスペインの艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に話したそうです。このとき秀吉は彼らの植民地化計画を瞬時に看破したのでしょう。
もう一つ許せないのが、日本の大事な国土が西欧人たちによって奪われ始めていることでした。
秀吉は、信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土を奪われる事は許せない事でした。
最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強の植民地化計画です。
秀吉はそれを防ぐためには、キリスト教大名や宣教師たちを一日でも早く止める必要があると考えたのでした。
秀吉の後、天下統一を果たした徳川家康は最初キリスト教との融和路線を取りますが、徐々に厳しくなりキリスト教の禁止令を発令しました。徳川家光の時には踏み絵を導入しました。
キリストを刻んだ石板を踏めなければ逮捕し、時には処刑も行われました。イスラム教徒とキリスト教徒との戦争では、お互いに殺し合っていますが、日本は戦争をしたわけではありません。統治者によってキリスト教徒が殺され、キリスト教徒をゼロにしようとしました。
現在でも、キリスト教徒は人口の約1%程度です。この少ないキリスト教徒の割合は、イスラム教の国を除くと、世界で最も少ない部類に入ります。
日本は世界で最もキリスト教が浸透していない国の一つです。
私の旦那様は、自然界にあるすべてのものに神様が宿ると感じる民族である日本人には、すべてが神様の恵みであり思し召しであると考える一神教の考えが理解できないからだといいます。
最後まで読んで頂きありがとうございました。この記事が少しでも、あなた様の役に立ちましたら嬉しいです。
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